闇に沈んだままの夜で、上弦の鬼たちは何を見て、何を失い続けたのでしょうか。黒死牟の執着、猗窩座の痛み、妓夫太郎と堕姫の壊れた絆、珠世が選んだ道、そして鬼舞辻無惨が最後まで拒んだ変化。それぞれの過去と心の闇には、想像を超えた理由が隠されています。なぜ彼らは人間でいられなかったのか――この物語の裏側に、どんな答えが待っているのでしょうか。
- 上弦の鬼たちが“鬼になった理由”を徹底比較
- それぞれの過去と人間らしさに迫る
- 鬼舞辻無惨と珠世の対照的な生き様
- 人間に戻るという願いが描いたラスト
- 鬼滅の刃が問いかける孤独と救い
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上弦の鬼に共通する“鬼になった理由”の哀しみ
『鬼滅の刃』に登場する上弦の鬼たちが「鬼になった理由」には、単なる欲望や残虐性だけでは説明できない、深い哀しみや心の歪みが共通して見られます。鬼舞辻無惨の血を受け入れた上弦の多くは、生前に強い喪失感や孤独、屈辱を味わい、その痛みが人間の限界や矛盾と結びついて鬼化に至っています。
たとえば黒死牟は、双子の弟・継国縁壱への激しい嫉妬と劣等感を抱え、「自分は選ばれなかった」という諦めから鬼の道を選びました。童磨は教祖として育ち、生まれつき感情がなく、「人を救いたい」という理念も虚しさの上にありました。その空白を埋めるように命を奪い続けました。猗窩座は恋人と師匠を奪われた過去から、喪失を繰り返さぬよう「強さ」に執着し、その執念が鬼舞辻無惨の目に留まりました。
半天狗や獪岳もまた、自分を正当化する妄想や強い承認欲求に囚われ、他者との関係に傷ついた過去があります。妓夫太郎と堕姫に至っては、社会から徹底的に拒絶されてきた兄妹としての運命が、二人を強く結びつけたと同時に、歪んだ絆として鬼の中でも異質な存在感を放っていました。
こうして見ると、上弦の鬼たちは皆、「人間としての幸福」を求めた結果、理想を裏切られ、行き場をなくして鬼化しています。彼らの物語は、人間の弱さや脆さ、そして「何かにすがらずには生きられなかった心の痛み」を照らし出しています。続く各節では、それぞれの上弦が抱えた哀しみの具体像をひとつずつ見ていきましょう。
黒死牟が捨てきれなかった“弟との差”

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上弦の壱・黒死牟(こくしぼう)という存在の根底には、弟・継国縁壱への激しい劣等感が常にありました。彼は人並み以上の剣才があり、鬼狩りとしても優れていましたが、縁壱という天才の存在に、自分の努力が無意味だと感じるようになりました。人間としての限界を悟ったとき、彼は「老いることの恐怖」から鬼になる道を選びました。
縁壱は戦国の世で最も理想的な剣士でしたが、剣や命を奪うことには執着せず、むしろ苦悩していました。その対照的な姿は、黒死牟にとって「到達できない理想」の象徴であり、「捨てきれなかった過去」でもありました。黒死牟が鬼になってからも縁壱への執着は消えず、長く生きるほどその思いは増していきました。
決定的だったのは、黒死牟が最後に縁壱の亡骸を前に涙を流した場面です。鬼になってもなお、弟への執着は乗り越えられませんでした。それは単なる嫉妬ではなく、自分の人生そのものを否定されたような思いだったのでしょう。
黒死牟の悲劇は、「鬼になればすべてが満たされる」という幻想の破綻を象徴しています。弟との差を埋めるために人間を捨てた彼は、結局その差を認めた瞬間に崩れ去っていきました。鬼としての強さを極めたはずの彼が最後に見せた涙は、人間としての弱さと哀しみを、皮肉にも濃くにじませていました。
童磨の空虚は愛を知らぬ伝道から始まった

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上弦の弐・童磨(どうま)というキャラクターは、感情の欠落という特異な特性を持ちながらも、人々を救うという理念を掲げた教祖として生きていました。しかし、彼の「救い」はあくまで外側から与えられた役割であり、自発的な情熱や愛情に裏打ちされたものではありません。彼は生まれつき、人間的な感情を抱くことができず、親が信仰を商売道具としていた環境も、彼を空虚な伝道者へと形づくっていきました。
信者に囲まれ、崇められながらも、童磨は人間同士のつながりを心から理解することができませんでした。誰かを愛することも、失うことに痛みを感じることもなかった彼にとって、「救済」という言葉はただの機能にすぎなかったのです。そうした中で彼が鬼になったのは、飢えや欲望からではなく、「感情の空白を埋めるための手段」だったとも考えられます。
皮肉なのは、彼が最期に迎えた死の場面で初めて“苦しみ”を味わい、それを「嬉しい」と口にしたことです。感情を持たなかったはずの彼が、死の間際にしか得られなかった実感。それは、鬼としての力でも、教祖としての信仰でも埋めることができなかった「人間としての体験」でした。
童磨の空虚さは、愛を知らずに生きてきた者がどれほど孤独かを物語っています。彼の悲劇は、他人を救っていたはずなのに自分は最後まで救えなかったことにありました。
猗窩座が渇望した強さと家族の記憶

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上弦の参・猗窩座(あかざ)にとって「強さ」は、単なる力への欲望ではなく、大切な人たちを二度と失わないための願いでした。人間だった頃の狛治は、病弱な父を救うため盗みを重ね、父の自殺を経験します。更生後には慶蔵や恋雪という新たな家族も、暴力によって奪われました。こうした喪失が、彼の魂に深い傷を残しました。
猗窩座はその後、鬼舞辻無惨によって鬼となりますが、鬼としての彼は「強さに執着する人格」に塗り替えられていきます。鬼化によって身体は強くなっても、心の痛みは消えることなく、むしろ「誰かを守れる強さ」を求め続ける形で歪んでいきました。彼が戦いで弱者や女性を侮蔑するのは、守れなかった過去への怒りや自己嫌悪の現れでもあります。
そして終盤、炭治郎との戦いの中で猗窩座は記憶を取り戻し、恋雪と慶蔵の姿が脳裏によみがえった瞬間、自らの行いと決別するように肉体の再生を止めます。この自己否定の選択は、彼が鬼としての力よりも、人間らしい愛情や後悔を取り戻した証でもありました。
猗窩座の鬼としての在り方は、「強くなること」が必ずしも救いではないということを示しています。守れなかった過去を抱えながら生きる苦しみと、その痛みに立ち向かった姿には、多くの読者も心を動かされたはずです。
半天狗の被害妄想と加害者としての本性
上弦の肆・半天狗(はんてんぐ)の鬼としての在り方は、極端な被害妄想と自己正当化から生まれたものでした。人間時代の彼は、罪を重ねながらも一貫して「自分は悪くない」と言い張り、他者に責任を押し付けて生きてきました。捕縛されて処刑される直前でさえ、自分は弱者で被害者であると周囲に泣き叫ぶ姿が描かれています【公式単行本より】。
鬼になってからも被害者意識は強まり、自分の暴力や悪行も「追い詰められたせいだ」と正当化していました。一方、弱者を装いながらも、実際には他者を攻撃し命を奪う加害者でもありました。
半天狗が分裂する複数の人格(喜怒哀楽の鬼)は、「自分を正当化したい本音」と攻撃性の表れです。特に「恨み」や「恐怖」が彼の原動力でした。炭治郎たちとの戦いでも、自分が傷つけられたことばかりを叫び続け、最後まで自身の加害性を認めることはありませんでした。
半天狗の悲劇は、自分の弱さや過ちと真正面から向き合うことなく、責任を転嫁し続けた結果として生まれたものです。その姿は、人間の心の闇が鬼という形でどこまでも肥大化しうることを、鋭く突きつけているといえるでしょう。
玉壺が求め続けた“認められたい自分”
上弦の伍・玉壺(ぎょっこ)は、強い承認欲求と劣等感に悩んでいました。人間時代は容姿や存在を嘲笑され、誰からも受け入れられず、孤独な日々を送っていたのです。そんな彼が唯一自分を肯定できたのは、芸術作品を生み出すことだけでしたが、その芸術も理解されず、奇異の目で見られていました。
鬼になってからも「認められたい」「唯一無二でありたい」という思いは歪んだまま残りました。刀鍛冶の里編では、自らの壺や芸術を誇示し、相手を見下す発言を繰り返します。その裏には、誰にも愛されず理解されなかった過去が影を落としています。
玉壺は自分の芸術を絶対視し、他人の命さえ素材として扱いました。人間時代の劣等感や悔しさは、鬼としての行動にも色濃く残ります。誰かに認められたいという欲求が満たされることは、最後までありませんでした。
強さや快楽だけでなく、「認められたい」「孤独から抜け出したい」という思いが、玉壺を突き動かしていたのでしょう。その歪んだ承認欲求こそが、玉壺の鬼としての在り方でした。
妓夫太郎と堕姫の悲劇は“生まれ”に刻まれていた
上弦の陸・妓夫太郎(ぎゅうたろう)と堕姫(だき)の兄妹は、鬼の中でも特に過酷な「生まれ」と環境に翻弄された存在でした。二人は遊郭の最下層で生まれ、幼いころから差別と貧困、暴力の中で生きるしかありませんでした。妓夫太郎は、社会から疎まれ続けるなかで「奪われる前に奪う」ことが唯一の自衛手段となり、妹の梅(堕姫)はその美しさゆえに大人たちの欲望や妬みの的となっていきます。
幼少期から「誰も自分たちを守ってくれない」という絶望を知り、頼れるのは兄妹だけという切実な絆が形成されました。しかし、その絆さえも外の世界によって何度も踏みにじられます。妹が焼かれて瀕死となった瞬間、妓夫太郎は初めて本気で世界に呪いを向け、無惨の勧誘にすがるように鬼となりました。
鬼となってからも二人は互いに依存し、傷つきながら支え合うことでしか存在意義を持てませんでした。「生まれてこなければよかった」というセリフは、彼らの悲劇が運命に刻まれていたことを示しています。妓夫太郎と堕姫の哀しみは、個人の選択というより、生まれ落ちた場所と時代の残酷さに根ざしたものでした。
この兄妹の物語は、どんなに強くなっても救われなかった子どもたちの象徴です。鬼としての強さや残酷さの奥に、癒えない孤独と欠落が刻まれているのです。
鳴女が選んだ“受け身の生き方”
上弦の肆・鳴女(なるめ)は、他の上弦の鬼とは異なる静かな存在感を持っています。人間時代は琵琶の演奏で生計を立てていましたが、身近な人間との関係で傷つき、やがて感情を押し殺して生きるようになりました。夫に演奏用の着物を売られたことで逆上し、彼を手にかけてしまった過去もあります。その後は人を殺してから演奏するという異様な日課を持ち、やがて無惨の目に留まるようになりました。
鬼になってからは無限城を自在に操る血鬼術を得て、鬼たちや人間の位置を思いのままに動かす“管理者”となります。それまでは十二鬼月とは別枠の側近でしたが、半天狗が倒されて空席となった上弦の肆に正式に昇格します。その後は無惨の側近として従順に仕え、自分から強く主張したり、余計な会話を避けて、必要最低限のやりとりだけで過ごしていました。
彼女の生き方には、積極的に何かを変えるよりも、他者の意志や流れに身を委ねる“受け身”の姿勢が強く表れています。鬼になってからも主役になることはなく、指示通りに働くことでしか存在意義を感じられなかったのかもしれません。無限城決戦では自分の意志ではなく、他者や無惨に操られる形で最期を迎えています。
鳴女の物語は、「主体的に生きること」を選べなかった者の哀しみを静かに映しています。誰かの手で動かされるだけの人生、その先に何が残るのか――彼女の在り方もまた、上弦の鬼たちの人間らしさの一面を伝えていると感じます。
獪岳が欲しがった承認は誰にも与えられなかった
獪岳(かいがく)という人物は、常に他者からの承認を強く求め続けてきた存在でした。彼は孤児院で育てられ、善逸とともに育った兄弟子でありながら、自分が報われないことや他人に認められないことに強い不満を抱いていました。人一倍努力しても結果が出せないとき、自尊心を守ろうと他者を見下し、弱い者に八つ当たりする姿も見られました。
彼の転落のきっかけとなったのは、寺の恩人や仲間たちを守るためとはいえ、自らの保身を最優先した行動でした。上弦の鬼に出会った際、己の命を惜しんで鬼になる選択をし、周囲の人間を犠牲にしてしまいます。妓夫太郎・堕姫が倒されたことで空席となった上弦の陸にそのまま収まりました。その後も「自分は誰よりも努力してきた」という思いに囚われ、善逸の存在すら嫉妬と憎悪の対象としてしか見ることができませんでした。
獪岳の行動原理は、「認められたい」「評価されたい」という承認欲求が満たされないまま膨らんでいったことにあります。しかし、彼の心の奥底では、自分を認めてくれる人は誰もいないという絶望が巣食っていました。だからこそ、善逸との最終決戦で「お前は弱い」と突きつけられたとき、プライドが音を立てて崩れていきます。
獪岳の生き方は、努力や野心が他者への攻撃や自己否定へと転化した典型例といえるでしょう。承認を求めてさまよった彼は、結局誰からも認められず、孤独と絶望の中で鬼としての生涯を終えることになりました。
珠世と鬼舞辻無惨が体現した“変わる者”と“変われぬ者”

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珠世と鬼舞辻無惨は、鬼という同じ存在でありながら、決定的に異なる選択を重ねてきました。二人の対比は、「変化を受け入れるか」「自らを絶対視して変わらぬままでいるか」という人間性の本質を問うものです。
珠世は人間だった頃に無惨の血で鬼となり、長い間、奪った命や家族への贖罪を背負い続けてきました。鬼でありながら人の心を捨てず、「人間に戻る」方法を探し続けました。彼女の執念は、無惨の支配から逃れ、鬼としての本能と人間の理性の両立を目指すものでした。炭治郎たちと出会い、薬学の知識で人のために尽くす姿には、「変わり続けること」による救いが感じられます。
一方で、鬼舞辻無惨は自分を“絶対の存在”と信じ、弱さや老い、死といった変化をひたすら恐れ、拒んでいました。自分の過去や罪を省みず、全てを支配しようとする無惨の姿勢には、「変われない者」の傲慢さが如実に表れています。どれほど多くの命を奪い続けても、彼自身は孤独と恐怖から解放されることなく、最後まで他者に心を開くことはありませんでした。
この二人の生き様は、「変化を選んだ者」と「変化を拒んだ者」の対比となり、鬼滅の刃全体のテーマにもつながっています。珠世が歩んだ道は、人間に戻ろうとあがくことそのものが希望であり、無惨が拒んだ道は、結局のところ“孤独な破滅”でしかなかったのだといえるでしょう。
自我を保ち続けた珠世の執念
珠世の歩みは、鬼としての本能と人間らしさの間で苦しみ続けた日々に象徴されます。彼女は無惨の血によって鬼と化した後、自らが犯した罪や奪った命への贖罪意識を、決して忘れることはありませんでした。他の多くの鬼が人間性を失い、衝動のままに生きるなかで、珠世は自分の意志を守り抜き、「人に戻る」可能性を決して捨てませんでした。
その象徴が、医師として積み重ねてきた研究と、鬼の治療薬の開発にあります。自分の力だけでなく、炭治郎や愈史郎たちとの関わりの中で、珠世は鬼でありながら「人のために尽くす」「自ら変わろうとする」ことの大切さを示していきました。人間としての理性を最後まで手放さず、苦しみや後悔と真正面から向き合い続けた姿は、多くの読者の心にも深く刻まれたはずです。
特に、無惨討伐の最終局面で珠世が自らを犠牲にしてまで仕掛けた薬は、彼女の長年にわたる執念と覚悟の結晶といえるでしょう。「鬼であっても人は変われる」――珠世が体現したこのメッセージは、鬼滅の刃という物語全体に通底する希望のひとつです。彼女の生き方は、どんな過去を背負っていても変わろうとする心が未来を照らすことを教えてくれます。
無惨の恐怖が否定した「弱さ」の価値
鬼舞辻無惨という存在は、徹底して「弱さ」を否定し続けた人物でした。彼は人間だった時から病弱であり、死への恐怖に苛まれていました。その根源的な恐れが、鬼という存在を生み出し、永遠の命と絶対的な力を求める執着へとつながっていきます。しかし、無惨が欲した「強さ」は、決して他者との共感や支え合いを生むものではなく、自らの孤独や劣等感を覆い隠すための“鎧”にすぎませんでした。
物語の中で無惨は、一切の妥協や慈悲を排し、部下の鬼たちですら自分の道具としてしか扱いません。弱さを晒すことや過去を受け入れることを拒絶し、自分を脅かすものは徹底的に排除し続けてきました。この「変われなさ」こそが、無惨が最後まで人間性を取り戻せなかった最大の要因です。
対照的に、珠世や炭治郎といった登場人物たちは、弱さや苦しみを認め合うことで人間らしさを取り戻し、困難を乗り越えてきました。無惨の恐怖は、弱さの価値そのものを否定するものであり、そのために彼はどれだけ力を得ても心の安らぎや救済を得ることはできませんでした。
最期の瞬間、無惨は自らの選択が「孤独」と「破滅」しか生まなかったことを思い知らされます。弱さを受け入れられなかった彼の生き様は、強さだけでは決して満たされない「人間の本質」を、物語の結末で強く浮かび上がらせました。
人間に戻るという願いが描いた終焉のかたち
「人間に戻る」という願いは、鬼滅の刃という物語の終焉を象徴する大きなテーマでした。炭治郎が禰豆子を人間に戻すことを目指した旅路は、単なる“元通り”を願うだけの物語ではなく、鬼となった者たちが本当に「赦される場所」や「再生の可能性」を探し求める心の軌跡でもありました。
物語の終盤、禰豆子が人間に戻る奇跡が実現します。それは珠世の長年の研究と、炭治郎たちの努力、数多くの犠牲の積み重ねでようやく掴み取られたものでした。一方、上弦の鬼たちや鬼舞辻無惨は、最後まで人間に戻ることを選ばず、力や永遠の命にしがみつきました。その果てに待っていたのは、誰にも理解されず孤独に散る哀しい最期でした。
人間に戻るということは、過去の過ちや喪失を受け入れ、もう一度歩き出す勇気でもありました。炭治郎や禰豆子、珠世たちが示した“変化を選ぶ強さ”は、鬼滅の刃における希望の象徴でした。鬼であった過去が消えるわけではありませんが、それでも自分と向き合い、前へ進もうとする決意が描かれたからこそ、作品全体が心に残るラストとなりました。
この終章で描かれた「人間に戻る」という選択は、鬼となった者たちの痛みや願い、人間として再び生きる意味を問いかけています。それぞれの人生に刻まれた哀しみや希望は、新しい時代や世代へと受け継がれていく――このラストは、普遍的な再生の物語として記憶に残ります。
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